「私は月に本を50冊読み続けています!」
「私は週に10冊本を読んでいます!」
数字には個人差がありますが、最近「向上心が高い」と一般的に言われる人々からよく聞く言葉です。そういう言葉を聞くと読書習慣がない場合、うわー私もたくさん読まなきゃ。。。でも何から読むのあ一番いいんだろうという考えになってしまう人は多いのではないでしょうか。
しかし、ここで量に走ろうとする人に伝えたいことがあります。
「読んだ量」を競うことに何の意味があるのでしょうか。
一年に千冊読める人より一年に一冊しか読めない人が「イケテナイ」のでしょうか。
実はこの話がタイトルにある読書をするにあたっては何を読むべきなのかという話に深く関わります。
本記事では、昨今流行の速読トレンドの延長で開発されている読書文化に対して問題提起をしたいと思います。ショーペン・ハウエルの『読書について』を主に参照しつつこの流れはよろしくないという話をしつつ何を読んだらいいのかにも答えていきたいと思います。
ショーペンハウエルのこの本は読書論で最も有名と言っても過言ではないほど多くの人に長らく読まれてきた書籍です。
いかに早く読むべきかが問われる時代だからこそ彼からは何を本当は読むべきか教えてもらうことができます。
読書とは何か
まず、ショーペンハウエルは読書がどのようなものだと考えていたかを見ていきましょう。彼は読書を『他人にものを考えてもらうこと』であり、『他人の考えた過程を反復的にたどるにすぎない』と述べます。
読書論ゆえ、読書を肯定するのかと思えば、随分と読書に対して批判的であることがわかります。
実際、読書ばかりをしている人を批判します。本をたくさん読む『多読は精神から弾力性をことごとく奪い去る』とまでいいます。
では、本を読んだらいけないのでしょうか。そうではありません。
何をどう読むのかが大切なのです。
彼は『熟慮を重ねることによってのみ、読まれたものは、真に読者のものとなる』と言います。『絶えず読むだけで、読んだことを後でさらに考えてみなければ、精神の中に根をおろすこともなく、多くは失われてしまう』ため意味がないのです。
せっかく読むならば読んだものをものにしたいでしょう。
それならば、意識すべきは繰り返しですが量ではありません。
本を読んだ冊数を競うことは何の意味もないどころか害悪ですらあります。
そして、物を考える活動として本だけに没頭するのではなく『現実の世界に対する注視を避けるようなことがあってはならない』のです。
何を読んだらいいかという質問には「早くたくさん読まなきゃという焦り」が混じっていることが少なくありません。
しかし、ショーペンハウエルが言っているこの「当たり前」を前提にすれば、まずは焦るなというのが一つ言えることです。
そして少なくとも早く読めそうなものとか即効性のあるスキルがつきそうなものとかを手に取ろうとするのもダメだということです。
(もちろん仕事で必要だからとか資格試験で必要だからという場合はそれでいいと思いますが)
読んではいけない本
そう考えると何を読んだらいいかという疑問を持つ人に言えることは一つです。
時間は限られているのに読んだ内容を身につけるのには時間がかかるから読む本を厳選するべきだということです。
なぜならば、『人生は短く、時間と力には限りがあるから』です。
そのために何を読むべきか知りたい人が身につけるべき技術があります。
それは『読まずにすます技術が非常に重要』になるとショーペンハウエルは言います。
具体的にその技術は『多数の読者がそのつどむさぼり読むものに、我遅れじとばかり、手を出さないこと』を意味します。
特に手を出してはいけないのが、『いま、大評判で次々と版を重ねても、一年で寿命が尽きる』ようなものです。
要するに、「ベストセラー」と謳われるものを警戒せよということです。
彼がいうには、『現代の文筆家、すなわちパンが目当ての執筆者、濫作家たちが時代のよき趣味、真の教養に対して企てた謀反は成功した』ようです。
御用執筆者の輩を批判しています。
厳しい言い方ですが、よくベストセラーが組織的な購入により作られている話などを考慮すると、ベストセラーを避けるというのは一理があるかもしれません。
どのような本を読むべきか
さて、悪書を追放した後にようやく何を読むべきかは自然と見えてきます。
では、「今すぐに読むべき本」とは、具体的にはどういう本を指すのでしょうか。
これについて彼は端的に、『比類なく卓越した精神の持ち主、すなわちあらゆる時代、あらゆる民族の生んだ天才の作品』と述べます。
「そんなことを言われても困る」と思われるかもしれません。
しかし、ショーペンハウエルは良書を『良書とだけいえば、誰にでも通ずる作品』と説明するだけです。
実に不親切です。具体的な作家名や作品を挙げていません。
ただ、少し拡大解釈すれば、「読んだことがなくても名前をなぜか知っている本」と読み替えてもいいのではないでしょうか。
例えば、日本で言えば夏目漱石の『こころ』、紫式部の『源氏物語』などであれば知らない人がいないレベルに有名でしょう。
海外のもので言えば孔子の『論語』やシェイクスピアの『ロミオとジュリエット』などでしょうか。
こういうものをまず読書活動で何を読むべきか困っている人は手にとるべきだということでしょう。
ただし、こういう本を目にした時に、多くの人が「こんな昔の本を読んで何の意味があるのか?」という疑問を持つかもしれません。
なぜなら、『源氏物語』を読んだからといって会社で出世できるわけでもなければ、会社経営ができるようになるわけでもないからです。
つまり、現代社会ですぐに役立つわけではありません。むしろそのような本を買えばお金の無駄になるのではないかという憤りすら覚えます。
では、この有名な書籍を「読んでも意味がない本」とするべきなのでしょうか。
最後にこの疑問について彼に影響を受けたヘルマン・ヘッセの考えをご紹介します。
ヘッセは、『本当の教養は、何らかの目的のためのものではなく、完全なものを目指すすべての努力と同様に、それ自体価値のあるもの』だと言います。
つまり、何らかの目的のための「手段」として読書することが、読書の理想のあり方からすでに逸脱しているのです。
また、彼は読書について『金持ちや、有名人や、権力者になるなど最終的な目標を持つ』べきではないと明言します。
『その努力そのものが私達をより楽しく、幸せな気分にし、自分の体力に対する自信と、自分が健康であるという気持ちをいっそう高めてくれるという価値をもっている』からです。
しかし、読書だけが『私達を喜ばせ励ましながら私達の意識を拡大し、私達の生きる能力と幸福になる能力を豊かにすること』につながるのです。
「何のために」という思考自体がすでに功利主義的な認識にとらわれています。それゆえ、その思考から逃れるためにもあえて「役に立たない」ような本に手を出してみるのがいいのではないでしょうか。
とりあえず焦るなということ、そして量に走って駄本を読み重ねても結果的に全然効率的じゃないよという話です。